緑の革命以来、主流となっている農薬農法( 慣行農法 )ですが、増産の結果生じた需給均衡以降も継続したのは、疑問であること前述の通りです。さすがに、農研機構において多収種子の開発はストップしましたが、民間企業においては、化学農薬、大型農業機械の販売が継続し、依然として、各メーカーの収益源になっています。
しかし、緑の革命は、農地と言う資源は地球上に限りがあるという認識から出発し、多収種子の開発、肥料・農薬・水の多投により、単位面積当たりの増収を図り、供給不足を解決するという方策でした。
確かに、世界的にみれば農業適地は限られていて、拡大余地には限界があります。簡単に倍増できるものではありません。3 倍、4 倍となるとなおさらです。農地拡大には限界があるので、単位面積当たり供給増に注力するのが現実的でしょうし、実際に、さまざまな研究開発の結果、単位面積当たり増収策は成果をあげています。
ですので、もともとは有機農法( 無農薬栽培 )から出発し、そこへ農薬を用いて、肥料と水を多投すれば、単位面積当たり収穫量を増大できる、という流れ( 緑の革命
)が歴史的真実です。慣行農法( 農薬栽培 )のことを近代農法と呼ぶことがありますが、種子に関する遺伝学的研究、新規農薬の開発、大型農業機械の開発、灌漑土木技術の発展、など、近代的技術開発に支えられているという特徴があります。
物事は、メリット・デメリット双方を持つのが世の常で、慣行農法( 農薬栽培 )には、省力化を中心とした生産コストの低減が小売価格の低下につながるメリットがありますが、一方、特に農薬の安全性に関して、その検証を動物実験でおこなっていることが理由となり確認できない部分が残り、それが有機栽培( 無農薬栽培 )の再評価につながっている現状も理解できます。
しかし、慣行農法( 緑の革命 )が増産対策であると考えるのならば、そもそもなぜ日本の米作に、過剰生産能力に苦しんでいた米作に適用されたのか?大変に不思議に思っています。
例えば、同じく増産対策である、新田開発が過剰生産能力解消の対策として取られていたとするならば、世論の反対は免れなかったでしょう。有明海東部干拓事業のような事案ばかりを続けてはいられない。続けていれば、いずれ農水省不要論につながり、その存在価値を問う声が国内に満ちることになったでしょう。米は余っていたのだから。
誤った政策;必要が無い増産対策としてであっても、無駄がわかり易く、税金を費消するだけの新田開発策に比べて、単位面積当たり増収策は、
・農地規模がバラけることで、農家間の立場の差による分断、収益力格差を生むことになり、規模拡大促進政策や生産者価格下落について受容されやすくなります。
・米の小売価格が下がることは都市労働者の好感を、
・農薬・肥料販売の継続、大型農機具の販売機会増大、と関連メーカーに収益を与えます。
表面的には、一石二鳥にも三鳥にもなり、農家以外の国民には受け入れられ易い政策でした。
問題は、米作には増産対策自体がそもそも必要なかったことです。そして、単位面積当たり増収政策を採用した結果、需要を満たすために必要な水田面積が減少し、今や水田が半減してしまいました。
そして、需要代替先である小麦への転作促進がおこなわれなかった( 米のみならず、小麦の国内生産量も減少した )ために、小麦の過半を輸入に依存するという現状になっています。
離農による水田の減少という動きは、1970年代にははっきりしていたのですから、三善信二 元農林事務次官( 在職 1975-1976 )以降の事務次官は、政策転換をおこなわなかったために、水田が半減したという事態につき責任を問われることになるでしょう。
そして、消費者は今までの小売価格安が、各メーカーは農薬・肥料・大型農機具による収益が幻であったことを知ることになります。トレードオフで招来した、半減した農地を今後回復していくには、大変な土壌改良費用がかかります。
わが国の食料自給率は、食糧( 穀物 )自給率を中心に下がっていますが、これは食料安全保障上大きな不安要因です。野菜や果物、肉類などについては短期間の欠乏で餓死しないのに対して、穀物は短期間でも餓死に直結します。だから、先ずは食糧について自給率を問題にし、それから食料全体の自給率を考えるのが、食料安全保障を考える上で一般的です。
一応は食料自給率について心配しているような口ぶりですが、食糧自給率を先進国の中でも突出して下げてきた、わが国の農政は、その思考過程がまったく理解できません。頭がいかれている。
重要な生産設備である水田について、誤った戦略を長期に取り続けた結果は水田半減と言う悲惨なものです。もし、水田を従来の面積まで回復する場合、消費者・農薬メーカー・肥料メーカー・大型農機具メーカーは、今まで得た利益と引き換えに、誤った戦略のツケとして、莫大な費用負担を利益応分に求められることは避けられないものと思います。そもそも、その今まで得た利益の原資は、離農した農家が得ていた収入です。
経営学では、良く「 規模の経済 」という戦略が提示されます。
「 沢山作れば( 売れば )、生産コスト( 調達コスト )が下がって、対抗者よりも有利である 」という、戦略と呼ぶほどでもなく、誰にでもわかり易い方策で、その単純さゆえに多くの産業で普通に採用されています。大きいことは良いことだ路線は、すべての産業でアプリオリに是認されています。( バリエーションはありますが )
しかし、物事は良いことばかりがある筈もありません。デメリットとしては;
1)需要変動の影響は、概して比率で出ますが、同じ比率の影響でも影響金額は、経営規模が大きいほど、大きくなります。単純に、10 %の売り上げ減は、元の売り上げが
500 万円なら、50 万円、1 億円なら、1,000 万円。小規模であれば自分で何とかなっても、経営規模が大きくなると同じことでも、金融支援が必要なレベルになります。
経営規模が大きければ、儲かったら大きいですが、損しても大きいんです。ちょうど、金融取引において、借金をして大きなポジションを張るのと同じで、大きく儲けるという幻想の中に居るだけという場合も多いです。
2)一般的に、国内の需要を満たすまでは供給拡大が継続します。特に、機械製造業は生産能力拡大が過剰に速くできますから、高度成長も可能です。職人を育てて供給を拡大してゆく手工業ではマネができない成長速度です。しかし、いったん国内需給が均衡し、新規需要がなくなり更新需要だけになってしまいます。需要減少です。
需給均衡以降は、生産能力が過剰となるのですが、過剰生産能力を解消する手段が確立していません。
私は、国内需給を満たした段階で、国内 1 - 2 社への淘汰を進め、事業の性格によっては国有化した方が良いと考えます。この段階になると民営で居続けることは、メリットよりもデメリットの方が大きくなってくるからです。民間企業として自由にやらせる意味が無いんです。
需給均衡を達成したのちは新規需要が失われ、更新需要のみに需要が激減します。こうなると、その過剰な生産能力を解消するためには、
・過酷な競争により競合他社に潰れてもらうか、
・話し合いで経営統合し、過剰設備を潰すか、
・過剰設備を、別の製品を製造する為に転用する、
しかありません。
これは、米作でも同様で、過剰な生産能力を削減する上で過酷な競争を強いられた結果、現在があります。
そして、経営規模が大きくなると、新製品に設備転用と言ってもうまくゆかないんです。
例えば、500 人程度の技術者を抱えているビジネスが 5 人程度のチームによる新規研究開発を複数したところで、新規開発品の売上規模は焼石に水程度です。逆に、経営規模が小さいほど方向転換し易いです。
5 人程度では 500 人を負担できるまでに販売が増加するのに、何年も、何十年もかかります。何年もかけているのにあまり市場規模が拡大しないことも多い。そのうちに良いことがあるだろうという気の長い話です。代替先の新規事業分野は、大きな規模が必要になるので、簡単に肩代わりさせられるビジネスを見出せるものではありません。実際に、大規模企業が業態転換・他分野進出に成功したケースはほとんどないでしょう。
結局のところ、規模を拡大するだけ拡大したら、後は大量生産の継続;同じことを何回も何年も繰り返すだけしかできません。
国内で規模を大きくしたら、結局のところ、最大限大きくすることで、製造コストを下げる方向で貢献してもらうしかないと思います。国内需要に見合う形で、できる限りコストを下げて、国内経済に貢献する方向です。( やはり、経営規模が大きいと製造コストは下がりますから )これ以上の競争がないわけですから、民間活力を発揮する機会はなく、であるならば、国有化という方向になるでしょう。上下水道事業などと同様に、国民の共有財産とする方向です。
国内に 1 - 2 社となると、地域独占企業になるわけですが、こういう状況下での企業の在り方についての議論は別にありますので、これ以上はそちらに譲ります。私は、発展の余地が限られている場合、民間活力にこだわる必要はないし、また、現在の独占禁止法などによる法整備は充分でないと考えています。
機械製造業はかつての高度成長の主役として、都市部から地方農村部へと豊かさが波及したことはご案内の通りです。この国民的体験が、規模拡大政策を無条件に受け入れる下地となっているのだろうと思います。
しかし、それは一面的な見方にすぎません。
高度成長は、金融支援により、生産能力増強の前倒しがもたらした結果です。当初は対米輸出、次に国内需要の拡大により、急拡大した需要に迅速に追いついた供給を高度成長と呼んでいるだけのことで、実際のところは、供給力の拡大よりは需要の拡大の方が重要であり、給与水準の幅を広げてこなかったことと年功序列賃金の採用が国内需要拡大に大きく貢献し、高度成長に結実したものと考えています。
確かに機械製造業は生産能力拡大の過剰な迅速さと言う特徴がありますが、それはゴールである需給均衡に早く到達するだけなんです。そこから先は、過剰設備に苦しむことになります。高度成長は得意だけれども、そこから先の答えはない、と言い換えても良いでしょう。
この様に、一旦需給均衡してしまうと、過剰な生産能力を廃棄してゆくくらいしか、解決策はありません。新規事業への乗り換え、輸出市場への拡販、いずれも困難があります。
特に、新自由主義・自由貿易を言上げして、対米自動車輸出に依存し続けている現状は、大変に不安定であり、多国間自由貿易協定を廃し、2 国間貿易不均衡是正主義が選択されつつあることを考えると、国内市場完結主義に迅速に対応すべきと考えることは無駄ではないと思います。そうなると、国際競争力云々は意味が変わってきます。
私には、現在のような過大な対米自動車輸出黒字が、いつまでも維持されることを想定できませんので、貿易黒字解消策と目される、米種子市場の民間開放は、今後大きな禍根を残すことになるのではないかと考えています。(
私は、種子法廃止反対です。)
種子法廃止は、日本モンサントを始めとする外資に、公共種子の米種子市場を明け渡す事になりますが、併せて国内大手農薬メーカーの新規参入も見られます。
国内大手農薬メーカーは、石油化学メーカーでもあり、1983 年に産業構造改善法により、過剰な生産能力を補助金の支援のもと休・廃止し、ほぼそのままの形で継続してきたという経緯があります。そこへ、新たに米種子市場を提供するわけです。農研機構が過去に蓄積したノウハウを提供することまで、法律で定められています。
こんな企業に、ここまで準備してあげて、新規事業を与える意味があるのでしょうか?
このまま過剰設備処理を解決せずに、うやむやのまま新規事業をあてがうのは、再び失敗するだけでしょう。
ゲノム技術は、米新品種開発技術とともに、農研機構にノウハウがあるのだから、無理して米種子市場を民営化する必要はないんです。
今まで、40年以上あったのですから、国民経済を考えて、石油化学業界で統廃合を推進して、最も大きい設備のみを残すような調整をすべきだったでしょう。中途半端な設備を抱え続けたわけです。これでは、設備休・廃止の補助金はドブに捨てたようなものです。小さい脳みそでよく考えて、他社と設備統合して、せめて
2 - 3 倍の生産規模に拡大しようと取り組んでいたら良さそうなものです。
おまけに、今まで新規事業への展開は進んでいません。ここで、米種子市場をあてがわれるや、米種子販売と収穫米全量買い取りの農奴契約です。これではいくら何でも、、、いやはや何ともあくどい。
( 引用:日経ビジネス 2018 年 4 月 19 日 住友化学、「コバンザメ戦略」で農業に商機 十倉雅和 社長談話 )
勝てる見込みはないけれど、中途半端に大きい規模では、需要減・価格変動による影響をもろに受ける石油化学、収益悪化の際には、再び税金の投入をアテにしているのでしょうか。前科がありますから。
農業には伸びしろがある、と言われても農家はそう思っていないでしょ。むしろ、乏しい農業収益のお陰で、離農が続出しているわけで、そこを新規収益源にすることになります。疲弊した農業界に新規参入など、普通なら、まずやらないことです。
要は、遺伝子組換え米種子とグリホサート除草剤を抱き合わせ販売することで経営規模を拡大した、バイエル( モンサント )のひそみに倣いたいだけなのでしょうが、米国は耕起による除草が土壌喪失を招いているという事情がありました。不耕起農法の必然性があり、グリホサート除草剤による除草を耕起に代わるものとして受け入れざるをえなかったということです。( 米国では、主食である小麦に遺伝子組換え小麦種子を用いていません。)
対して、わが国は水田ですので、不耕起ニーズはそこまで大きくありません。除草剤ニーズを敢えて言うならば、温帯に属していることから、雑草にひどく悩まされ、営農規模拡大において大きな障害になっていることで、遺伝子組換え米種子+除草剤は、営農規模拡大に朗報でしょう。
では、日本において、営農規模拡大は何のためにするのですか?
単に生産コストを下げたい、と言うだけならば、安全性が不確実なグリホサート除草剤を、そして、世界中で主食である穀物には使用されていない遺伝子組換え種子を、他国に先駆けて使用する理由になりません。
科学的安全性評価試験は動物実験でおこなわれます。しかし、人間と動物では身体の構造が異なります。だから、科学的安全性評価試験なるものは、人間でも多分こうなるだろうという、動物実験モデルを使った予想でしかないのです。
人が死ぬか死なないか、という判断程度であれば、この不十分な動物実験モデルであってもそこそこ使えました。しかし、人間固有の高次脳機能や腸内細菌叢への影響となると、話が変わってきます。安全かどうかは誰にもわかっていないのです。現在の動物実験による評価では、少々改良したところで、近い将来、全てについて完全な予想ができる様になることは無いでしょう。
農薬メーカーとその工作員は、科学的安全性評価試験( 動物実験 )をパスしたから科学的に安全性は確保されている、と紋切型の説明をおこなって、人間への安全が完全に証明されているかのように装い、グリホサートの安全を押し切ろうとします。まともな業績( IFなど )の一つもない毒性学者などを総動員していますね。
しかし、これは悪質な世論誘導です。ここまでくると、もはや販促行為の領域を完全に超えています。やっていいことと悪いことの区別がつかないのかな? お前ら馬鹿だろ。
グリホサート除草剤も上市後 20 年ほど経って、知的障害・精神障害・アレルギーなどの増加を背景に、どうも様子がおかしいんじゃあないか?従来の試験方法で見過ごしているのではないか?となり、現在に至っています。
アンチの様に、従来の方法では安全です、見過ごしてなどいません、と力説されても、話の土台が異なるから、意味が無い。そもそも、FACT で反論、なんて言うのは、共産左翼系が言いがかりをつけるやり方ですよね。
例えば、砂ぎもへの影響は、人間で調べても充分にはわからないですよね。あくまでも予想しかできない。でも、鶏を使って実験すれば、完全にわかります。そういうことです。
大規模経営は、収益が大きくなる代わりに、損失も大きいんです。ですから、経営環境の変動に対応して保護してもらえなければ、経営を継続することは困難でしょう。すくなくとも小規模・零細経営よりも遥かに難しい。そして、他事業への転換も簡単ではない。もし大規模営農がうまく行っているとすれば、理由があります。そして、補助金などがいつまでも続く保証はありません。
元々、特定企業の新規市場参入を事実上援助するというのも疑問が残る話ですが、過去40年間、上記両者に失敗した企業に対して、ゲノム技術を任せることに果たして勝算があるのか?何年後かには、中途半端な規模で、「
ゲノム事業では当社が挑んでも( 世界で )勝てる見込みがありません。」となるのが、関の山ではないでしょうか?税金の投入ほかノウハウ提供などの優遇策が無駄になるだけです。農研機構が研究開発を継続すれば、済む話だからです。
以上の様に、過剰生産能力の処理は大変に難しいものです。製造業でもなかなか成功しない。にもかかわらずに、米農家には過酷な競争を強い、結果、多数の離農を出し続けています。今までの新田開発の遺産を食いつぶしたと言えるでしょう。
そもそも、農業の主役である農家は皆民間です。民間活力促進といっても、農薬メーカーや農機具メーカーが活力を出すばかりでは、農政の方針に疑問が残るというものです。
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